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雑賀孫市と雑賀衆
詳しくは、紀州雑賀「孫市城」のサイトをご覧ください。
雑賀孫市と雑賀衆の街=和歌山市
戦国時代の和歌山(下部に注あり)を語るとき、雑賀孫市と雑賀衆
の活躍ははずせません。紀州人が、最も自由闊達に活躍していた時、
それは、地侍集団「雑賀衆」の時代だったからです。
戦国の鉄砲大将、雑賀孫市は、その類い希な鉄砲の腕前、独特の兵法、
優れた知力、例をみない剛胆さで信長をも恐れさせた雑賀衆の頭領
として勇名をとどろかせました。
今の世なら、4年に一度のオリンピックで2大会3大会連続で
金メダルを取れる射撃の腕前だったでしょう。しかも知力が優れ、
肝っ玉も座っていた人物でした。
戦国最強の鉄砲集団「雑賀衆」は、戦国時代、次のように言われて
いました。 雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち!敵に回せば必ず負ける
と・・雑賀衆は、戦国最強の傭兵集団でした。
独立独歩で進取の気性に富む紀州人
あるものは、船を操り、全国各地と交易を
さらには、明や朝鮮との貿易を
またあるものは、鉄砲の有効性に目を付け
鉄砲を作り、鉄砲集団を作り上げた・・・。
夢とロマンが膨れあがってくるような・・・
そんな時代があり、紀州人がいました。
雑賀衆本拠の街・市駅地区は、戦国時代こんな街でした。
(1)当時最大の商業集積地
全国からの高野山の運上米を運んだ"基地のまち"でした。
和歌山市駅付近には、紀伊湊という川港がありました。
紀伊湊は、高野山へ運ぶ運上米を海船から川船に積み替えた
基地になるなど流通・交通の中心でした。当時全国から一番
物資が集まった場所、商業の中心地であった場所です。
また、六日市三日市が開かれたほか、雑賀塩の製造販売、
優れた船舶技術や鍛造技術など商工業が盛んなところでした。
(2)本願寺が三年間あった街
顕如上人が石山本願寺から退去して貝塚に移るまでの三年間、
本願寺はここ鷺ノ森にありました。
当時の鷺森御坊は、大海に浮かぶ小さな島のような異質な
景観を呈していたそうです。
今は「鷺森別院」として残っています。
(3)信長の「最大の敵」雑賀衆の本拠があった街
石山本願寺や鷺森御坊を支えた雑賀衆の本拠があった場所です。
当時信長の「最大の敵」で十年以上も信長を苦しめた反骨集団
雑賀衆の本拠のあった場所です。
(4)雑賀兜や鉄砲を作った街
紀州には古くから鎧を製作する職人がいました。
「雑賀鉢」と呼ばれる兜は、紀州雑賀荘の宇治で製作されました。
そうです。現在の私たち和歌山市駅前付近です。
この「雑賀鉢」を着用して雑賀衆が戦っていたといわれています。
また鉄砲伝来の数十年後には数千挺もの鉄砲を雑賀衆は保有して
いました。このような大量の鉄砲を雑賀衆はどのようにして手に
入れたのでしょうか?
堺などから購入したもの以外に、古来からあった鍛造技術を利用
して雑賀荘宇治あたりで生産していただろうといわれています。
(注)戦国時代の和歌山・・戦国時代、和歌山という地名はありませんでした。
和歌山市のほぼ全域と海南市の一部を「雑賀」「紀州雑賀」と呼んでいました。
秀吉が紀州雑賀を制圧して、和歌山城を築城の際に、和歌浦との対比で「和歌山」
と名付けました。
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